みなさん、はじめまして。『知のリテラシー 文化』の第6章「写真」を執筆しました松本健太郎です。前回の記事では編者の河田さんが本書の成り立ちについてお話しされましたので、今回の記事では僕が担当した章に話題を限定して、その執筆にあたっての“ねらい”などを手短に説明したいと思っています。
第6章のテーマは「写真」。しかしおそらく、ここでの写真の論じ方は、標準的な写真論のそれとはだいぶ異なるはずです。僕がこの章で目指したのは、例えば有名な写真家のある作品を紹介したり、あるいは写真史を概説したりすることではありません。むしろ僕が目指したのは、19世紀の前半にまったく新しい視覚システムとして登場した写真というメディアが人類の世界認識の方法をどう変化させていったのか、ということを読者のみなさんに意識してもらうことでした。
第6章の副題は「世界を透かしみる機械の眼」となっています。ここでいう「機械の眼」とはカメラのことですが、じっさいに僕らはそれぞれ自前のふたつの目玉で直接的にモノ(=対象世界)をみるだけでなく、カメラによって切り取られた光景を間接的にみることによって世界のイメージを組み立てていきます。しかもその際に重要なのは、僕らに外部世界を透かしみせてくれる写真という表現形式が「透明性」をそなえている、ということです。たとえば僕らは仮にアメリカに行ったことがなくとも、そのニューヨークという大都市で同時多発テロが起きたことを「見て」知っています。だとすると、そのような視覚体験は現代的な映像メディア──写真やテレビなど──の情報媒介に由来する、ということになるわけです(もちろん本章では写真にフォーカスして議論が進んでいきますが、他方ではそれを起点として、多種多様なコミュニケーション手段を編み出してきた人類のメディア史的な歩みの全体像にも目を向けてもらえるような内容になっています)。しかも僕らが世界貿易センターのツインタワーに2機のジェット機が突っ込んだことを「事実」として疑わないのは、それを報じる現代的な映像メディア、たとえば新聞写真やテレビ映像などのいわば「透明な窓」が現実世界をあるがままに透かしみせてくれると通常は信じられているからです(これと比較すると、たとえば絵画に描かれた風景は、それを描く人のスタイルが反映されるため、写実的であるようにみえても「あるがまま」とはいきません。ちなみに「透明な窓」とは、もともとは遠近法という視覚システムを表現するために使用されていた隠喩でした)。
かつてフランスの記号学者ロラン・バルトは「透明性」ということに関連して、「写真はそれを包んでいる透明な軽い外皮にすぎない」と語りました。そして、この写真の特殊性に注目していったのは彼だけではないのです。話はちょっと変わりますが、僕は先日、山形県米沢市で開催された日本記号学会に参加してきました。大会テーマは「Unveiling Photograph──立ち現われる写真」だったのですが、奇しくもそのなかで二件、写真の透明性に関する学会発表がありました。発表者はお二方とも(一人は本書の編者の一人、河田さんでした)ケンドール・ウォルトンという哲学者の写真論を研究の対象とされていたのですが、僕としてもその内容は「モノを見ること/写真をとおしてモノを見ること」の差異を考えていくうえで非常に興味ぶかかった。写真の透明性というテーマ、これは今ちょっとホットかもしれません。
しかし僕の第6章では、これとはまったく逆の考え方として、写真の不透明性についても検討がなされています。どういうことかというと、写真の透明な表象が何者かの意図のもとで加工され、そこにうつしだされた現実が大きく歪められる可能性がある。じっさいに写真がプロパガンダの手段として利用されてきた歴史的な経緯を念頭におくならば、それが擬似的な世界を演出したり偽装したりする、ある意味で「不透明なメディア」にもなりうることも否定できない。そんなことで第6章では「透明性/不透明性」の双方に対する問いかけを軸として、また、それだけではなく「言語と映像との相違」やら「人間と機械との融合」やら、さまざまなトピックを議論のマナイタのうえに載せながら、写真というメディアに対して複数の視点からアプローチしているわけです(そのあたりは、詳しくは本書のほうをお読みいただければと思います)。
本章を執筆するにあたっての“ねらい”として、僕は読者のみなさんに「学問すること」の楽しさを伝えていきたいと願っていました。たとえば写真は僕らの日常世界のイメージを形成する不可欠な素材ですが、人によってはその存在があたりまえすぎて、その影響に対して無自覚になりがちかもしれません。しかし、いったん理論のフィルターを通してみると、いままで「あたりまえじゃん」とおもっていたことが、まったく別の表情をもって僕達の意識に立ちあらわれてくる。もちろん本書では第6章だけではなく、全体をとおして、さまざまな学問的バックグラウンドをもった執筆者たちが、それこそいろいろな「思考のカタチ」を各自の担当章で紹介してくれています。もちろん僕の第6章もそうです(この章では、いわば学問的思考へのイントロダクションとして、記号論やメディア論の入門的な内容をもり込んでいます。これらの分野の視点からみると、写真とは記号であったり、またメディアであったりするわけです)。本書は「ファッション」「建築」「スポーツ」など、さまざまな文化的領域に関する具体的な実例を含み、一般書として幅広い層の読者に楽しんでいただける内容となっております。そして新しい概念や理論の学習をつうじて、いままで当たり前だと思っていたことが違ってみえてくる、また、そうすることで世界を読み解くための新しくも異化的な視点を獲得することができる、本書はそんな「知のリテラシー」をはぐくむための脳トレの場となることでしょう。