2007年7月2日月曜日

第4章「音楽」の葉口です

こんにちは。『知のリテラシー文化』の第4章「音楽」を担当した葉口です。また、大学で教鞭をとることになってまだ数年しか経たない新米ですが、これまでの文化や芸術を扱った大学生向けのテキストの題材や感性の古さに何となく納得できなくて、こんな本作ってみたい!、ということをいいはじめた一人でもあります。新しいタイプの文化論の教科書、それも一般読者にも読んでもらえるものを作りたい、という当初の漠然としたアイディアからスタートした企画が、わずか一年でゴールインしてしまったことには当事者としても驚きなのですが、他の章の精鋭執筆者や編集部の方の多大なるご協力もあって、『知のリテラシー文化』は、これまでの大学のテキストにはなかった新しいタイプの大学生向けのテキストとしてだけでなく、知的好奇心をくすぐる読み物となったのではないか、と自負しています。

さて、今回の記事では、第4章の「音楽」について、本書を実際に大学の講義で利用している様子や学生の反応についてお伝えしたいと思います。

私が担当した第4章の冒頭では、「NO MUSIC, NO LIFE」というタワーレコードのポスターを参考資料として挙げています。このポスターのシリーズには、数多くのバンドやアーティストが登場していますが、私はあえてY.M.O.のものを選びました。その理由の一つには、ぜひともYMOというバンドの存在や、そのメンバーぐらいは知っておいてほしいという意図がありました。そこで、この章を取り上げた授業の一番最初で、「このポスターに写っているのは誰だかわかりますか?」という学生さんたちに聞いてみました。(予想はしていましたが)この質問の答えがすぐにわかった学生さんは2、3名。そこで「この中に坂本龍一がいるよ」というと、やっとみんな「ああ」という声をあげてくれました。私としては、Jポップのルーツとして語られるバンドでもあり、80年代の日本のポップスや歌謡曲をひっぱっていったアーティストが在籍していた「はっぴいえんど」の話をはじめたかったのですが、1988、89年生まれの彼・彼女らにはやはりちょっと無理があったのです。ここで話題を展開できなかったのは残念だったのですが、原稿のほうでは、このYMOから派生した‘坂本龍一’というキーワードは、後の第3節への伏線として指摘しておくことにしました。

その第3節では音楽と映像について扱っているのですが、そこで映画音楽の話がでてきます。音楽が映像と密接に結びついている事例の一つとして、坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』(1983)や『ラストエンペラー』(1987)のサントラを利用しました。これらの映画も古い作品ですが、YMOの楽曲は知らなくても、あるいは、これらの映画は見たことなくても、「戦メリ」の有名なメロディーならば知っているという学生さんも実は多かったりするのです。もう一つ、『ラストエンペラー』のサントラは、坂本龍一が日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞したものとして知られていますが、この映画のなかでの音楽の使われ方は、映像と音楽の相互作用を考えるうえでの格好の題材でもあります。いわゆるオーソドックスな映画音楽の作法として、同じメロディーが、映像の中のある場面や登場人物の心情に合わせて、音色、調性、リズムでさまざまに編曲されていのです。特に私の講義では、中国からの留学生が多く参加しているので、彼・彼女らの関心も引くことができます。そのあとの学生たちの素朴な感想には「アジアっぽい」とか「懐かしい感じがする」といったものが見受けられるのですが、そこから、音・音楽によるイメージが、映像の解釈にどのように関係してくるのか、またそうした解釈を私たちはどのようにして身につけてきたものなのか、といった問題にも触れました。

まだ、他にもいろいろな学生の反応はあるのですが、本書の「まえがき」でも書いたように、現在の若い人たちにアクチュアリティのある身近な題材から考える、というスタンスを大切にしたかったのも、こうした若い人たちの反応を日々身にしみて感じるからでもあります。そのおかげ(?)もあってか、つい最近、ある学生がこんなことをいってくれました。


「先生が書いていた本の中でさ、『BECK』とかあったじゃん。そこんところで、友達と音楽の趣味の話をするとき少し緊張する、というのが書いてあったけど、それあるある~って思ったんだって。でもそれがなんでかっていうのが少しわかった気がするだよ~」[静岡弁です]


彼がいっているのは、2節の「音楽をめぐるコミュニケーション」のところで、個人の音楽の好みが、他者との関係を規定し、自分の社会的な位置を確認するコミュニケーションでもある、と説明した箇所のことです。彼は、『BECK』の愛読者でもあったので、そこにうまく引っかかってくれたのでした。こういう反応をしてくれると、じつはそこのところの議論のバックグラウンドにあるのが、ピエール・ブルデューの趣味による差異化の話で……といった話もできるのです。

一緒にこの本の編集したメンバーでもある河田さんが最初の記事で、大学の授業でも「○○という思想家はxxについて△△といいました、って話をしただけでは、ああそうですか、で終わってしまう。」という話をしています。大学の授業で学生に教える身にあって感じるのは、まさにこのことです。抽象的な概念の説明だけでは、学生たちは物足りなさを覚えているだろうし、その概念の説明ですらも本当のところ理解してもらえたのかなあ、という不安も生じます。ですから、それらの概念が実際に自分たちの普段の生活の中でどのように実感できるか、また、ある概念を知ることで自分のそれまでのものの見方や考え方にちょっとした亀裂が生じるといった‘知の体験’というものを少しでも感じてほしい、というスタンスを大切にしながら、本書を利用して講義を進めているのが現状といったところです。