2007年8月12日日曜日

第10章「スポーツ」の福田です

こんにちは。『知のリテラシー 文化』の第10章、「スポーツ」の執筆を担当した福田裕大です。前々回は松本さんがご自身の原稿の狙いなどを、前回は葉口さんがこの本を用いた授業の様子などを紹介してくださいました。今回は少し趣向を変えて、著者自身が自分の原稿について語るという基本路線は引き継ぎながら、この「スポーツ新聞を投げ捨てるための方法序説」というタイトルの文章を書くにいたったのか、お話しさせていただきたいと思います。

はじめに断っておきたいのですが、スポーツはこれまで僕自身の研究上の興味の対象の一つではありましたが、僕はけっしてスポーツ文化の専門家だというわけではありません。ですが結果的にいうと、今回の原稿の中で、僕がスポーツの専門家としてではなく、その対象であるスポーツそのものや、スポーツ研究とでもいうべき領域とは少し離れたところからスポーツを考えることができたということは、それなりにポジティブな結果につながったのではないかと考えています。僕の今回の原稿、「スポーツ」の基本的なコンセプトは、「スポーツファン」的な態度、つまりスポーツを愛する人間の態度をいったん捨てたところからスポーツを考え直してみよう、というものでした。このアイデアは、実のところ、原稿の準備のためにスポーツ文化について書かれたいくつかの論文を読み進めているうちに思いついたものです。このときに僕が手にしたたくさんのスポーツ文化論は、僕にとって水先案内として様々な知識や思考の方法を提供してくれた一方で、失礼な言い方になるかもしれませんが、「これを書いた人はただスポーツが好きなだけなんじゃないだろうか?」と感じてしまうようなある種のナイーブさをも含んでいたのでした。何事も安易に一般化してしまうことは危険ですし、それは『知のリテラシー』という本自体のコンセプトにも反することなので断言は避けますが、少なくとも僕はそのとき、いくつかのスポーツ文化の専門書を貫いている「無自覚のうちに生じてしまうスポーツへの愛」とでもいえるものに違和感を覚え、そこにある種の「怖さ」を感じたのです。

とはいえ、はじめは僕自身この「怖さ」のもつ意味をはっきりと把握することができませんでした。どれだけ多くの言葉を連ねても結局のところ「スポーツは善きものだ」というひとつの意味に帰着してしまうようなタイプの言葉に僕たちがとらわれている間はけっして語ることのできないことがらがスポーツにはあり、それを語れないこと(認識できないこと)によって、僕たちはあまり喜ばしいこととは言えない何らかの事態に巻き込まれてしまっているのではないか、という漠然とした疑念をもちつつも、僕自身その疑念を自分のなかからうまく取り出してくることができなかったのです。結果的に、この疑念は、僕個人のごくプライベートな体験と、とりわけある種の違和の記憶と結びつくことで、ある程度ときほぐされていったように思われます。こうした場で私語りをすることにためらいがないわけでもないのですが、以下少しだけ私的な体験談を紹介させていただくことをお許しください。

高校生のとき、僕は一応サッカー部のメンバーでした(1990年代の半ば頃のことです)。僕の高校のサッカー部は、上下関係はさして厳しいものではありませんでしたが、練習法は極めて古典的でした。一方、そんなサッカー部に僕と同期で入部したメンバーのうちの何人かは非常に「リベラル」なスポーツ観の持ち主でした。彼らの多くはクラブチーム出身の実力者であり、意図的に体育会系/学校スポーツ的な価値観やふるまいから距離をとっているように見えました。彼らは入部当初から、強いチームを作るのは厳格な規律でも練習量でもなく、個々人の意識の高さと練習の合理性であると主張し、同級生はおろか先輩たちをも啓蒙していきます。結果、部の有り様は大きく様変わりし、例えばそれまで号令をかけながら行われたランニングとストレッチは廃止され、ウォーミングアップは完全に個々人の裁量に委ねられたのでした。また、徹底的な実力至上主義が導入され、年齢というそれまでの序列の原理を葬ってしまったのです(それによって僕たちの一学年上の「先輩」が半数以上退部してしまうといった弊害も生まれましたが)。

さて、そんななかで僕はどうしていたかというと、僕自身も日本のスポーツ教育のあり方にいい加減辟易していましたので、始めは彼らたちの啓蒙活動に大いに感化されたのですが、やがて彼らの感覚にも違和感を覚えるようになり、退部することになります。端的に表現すると、「個々人が自主的に己を高めること」というテーゼを僕は自分のなかに取り込むことができなかったのです。言葉を換えれば、それまでの規律から解放された後に、それでは「なぜ僕は僕を高めようとする意志をもたねばならないのか」、「なぜ上手くなろうとしなければならないのか」という問いに答えを見出すことができなかったのです。または、「チームのために」というスローガンが失効したのちに、個々人が自ら進んで「上手くなること」を目指しているさまが、僕には何だか奇妙に感じられたのです。

このエピソードは、一方で当時の日本のスポーツの世界で生じていた変化を非常にわかりやすいかたちで説明していると思われます。よくも悪くも学校スポーツ的な価値観に支配されていた日本のスポーツ文化は、この頃から少しずつ(当時よくいわれた言葉で表現すると)「自主性を重んじる」ものへと変化していました。実際、僕の同級生たちの価値観のベースには1993年に発足したJリーグの周辺で生まれた言説や価値観が置かれています。そこでとりわけ強調されていた「プロフェッショナル」の概念は、各選手の自発的向上、自己実現を、さらにその目的を達成するための具体的なプランニングをも含意した徹底的な自己管理・自己責任論でした。そして、こうした主体性に重きを置いた価値観は、管理教育的な旧来型の日本スポーツからの解放あるいは脱皮として、要するに「善きもの」としてイメージされることになったのです(井上雄彦の『スラムダンク』がおかれていた文脈はまさにこのようなものであったはずです)。

他方で、この「善きもの」としての主体的スポーツマン像がはらんでいるある種の危なっかしさを、当時の僕はそれなりに感じ取っています。実際のところ、このとき感じた違和感は、はじめはそれとはっきりわからないほどに曖昧なものでしたし、僕自身、スポーツ文化を貫いている物語が僕をそう名指すであろうように、自分のことを「根性なし」とみなして片付けてしまおうと思ったこともありました。ですが、高校を出てからそれなりに人生経験を積むにつれ、この部活体験で僕が感じた違和感はそれなりに正当性があるものだったと思わざるを得ないようになりました。端的にいって、「主体的たらんと欲する欲望」が社会の動きに絡めとられてしまっていることはもはやどう見たって明らかだったのです。アルバイトの現場、買い物で訪れたセレクト・ショップ、就職活動の説明会、そうした場所を介して出会う人々のほとんどが、本当に滑稽なくらい自己を高めようと欲していました。そしてかれらの行く先は、たいていの場合カネを落とすか自分の身体を損なっていくか、どちらかだったです(損なわれてしまった身体の力は、食文化の章でも触れられていた「健康ゲーム」によって取り戻されようとするのでしょうか)。

おそらくある一面において、現代の日本の社会は、あたかもスポーツのトレーニングをするように自己を高めようとする個々人の欲望をひとつの大きな原動力としているような社会なのでしょう。そして問題なのはここなのですが、そうした構造がはらまざるを得ない問題点が、スポーツ的自己実現の物語によって、そうした物語のもつ「美談性」とでもいえるものによって、解毒されているかのような幻想が生じてしまっているのです。ちょっと長くなってしまいましたが、僕自身の個人的なレベルではこうした問題意識にもとづいて『知のリテラシー文化』第10章は執筆されました。つまり、そこでの最大の狙いは、今日人々の自己実現志向がおかれている状況を曖昧にしてしまっているスポーツ的自己実現物語の力から逃れるようなものの見方を提示することだったのです。僕のこうした狙いがどこまで成功しているかは、読者の皆様のご判断を仰ぐ以外にありませんし、是非とも忌憚なきご意見を聞かせていただきたく思います。またこのブログに執筆することも(案外遠からず)ありそうなので、次回は読者の方々のご意見にお答えする、なんてことができたら、それはすごく幸せなことだなあなどと思っています。

2007年7月2日月曜日

第4章「音楽」の葉口です

こんにちは。『知のリテラシー文化』の第4章「音楽」を担当した葉口です。また、大学で教鞭をとることになってまだ数年しか経たない新米ですが、これまでの文化や芸術を扱った大学生向けのテキストの題材や感性の古さに何となく納得できなくて、こんな本作ってみたい!、ということをいいはじめた一人でもあります。新しいタイプの文化論の教科書、それも一般読者にも読んでもらえるものを作りたい、という当初の漠然としたアイディアからスタートした企画が、わずか一年でゴールインしてしまったことには当事者としても驚きなのですが、他の章の精鋭執筆者や編集部の方の多大なるご協力もあって、『知のリテラシー文化』は、これまでの大学のテキストにはなかった新しいタイプの大学生向けのテキストとしてだけでなく、知的好奇心をくすぐる読み物となったのではないか、と自負しています。

さて、今回の記事では、第4章の「音楽」について、本書を実際に大学の講義で利用している様子や学生の反応についてお伝えしたいと思います。

私が担当した第4章の冒頭では、「NO MUSIC, NO LIFE」というタワーレコードのポスターを参考資料として挙げています。このポスターのシリーズには、数多くのバンドやアーティストが登場していますが、私はあえてY.M.O.のものを選びました。その理由の一つには、ぜひともYMOというバンドの存在や、そのメンバーぐらいは知っておいてほしいという意図がありました。そこで、この章を取り上げた授業の一番最初で、「このポスターに写っているのは誰だかわかりますか?」という学生さんたちに聞いてみました。(予想はしていましたが)この質問の答えがすぐにわかった学生さんは2、3名。そこで「この中に坂本龍一がいるよ」というと、やっとみんな「ああ」という声をあげてくれました。私としては、Jポップのルーツとして語られるバンドでもあり、80年代の日本のポップスや歌謡曲をひっぱっていったアーティストが在籍していた「はっぴいえんど」の話をはじめたかったのですが、1988、89年生まれの彼・彼女らにはやはりちょっと無理があったのです。ここで話題を展開できなかったのは残念だったのですが、原稿のほうでは、このYMOから派生した‘坂本龍一’というキーワードは、後の第3節への伏線として指摘しておくことにしました。

その第3節では音楽と映像について扱っているのですが、そこで映画音楽の話がでてきます。音楽が映像と密接に結びついている事例の一つとして、坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』(1983)や『ラストエンペラー』(1987)のサントラを利用しました。これらの映画も古い作品ですが、YMOの楽曲は知らなくても、あるいは、これらの映画は見たことなくても、「戦メリ」の有名なメロディーならば知っているという学生さんも実は多かったりするのです。もう一つ、『ラストエンペラー』のサントラは、坂本龍一が日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞したものとして知られていますが、この映画のなかでの音楽の使われ方は、映像と音楽の相互作用を考えるうえでの格好の題材でもあります。いわゆるオーソドックスな映画音楽の作法として、同じメロディーが、映像の中のある場面や登場人物の心情に合わせて、音色、調性、リズムでさまざまに編曲されていのです。特に私の講義では、中国からの留学生が多く参加しているので、彼・彼女らの関心も引くことができます。そのあとの学生たちの素朴な感想には「アジアっぽい」とか「懐かしい感じがする」といったものが見受けられるのですが、そこから、音・音楽によるイメージが、映像の解釈にどのように関係してくるのか、またそうした解釈を私たちはどのようにして身につけてきたものなのか、といった問題にも触れました。

まだ、他にもいろいろな学生の反応はあるのですが、本書の「まえがき」でも書いたように、現在の若い人たちにアクチュアリティのある身近な題材から考える、というスタンスを大切にしたかったのも、こうした若い人たちの反応を日々身にしみて感じるからでもあります。そのおかげ(?)もあってか、つい最近、ある学生がこんなことをいってくれました。


「先生が書いていた本の中でさ、『BECK』とかあったじゃん。そこんところで、友達と音楽の趣味の話をするとき少し緊張する、というのが書いてあったけど、それあるある~って思ったんだって。でもそれがなんでかっていうのが少しわかった気がするだよ~」[静岡弁です]


彼がいっているのは、2節の「音楽をめぐるコミュニケーション」のところで、個人の音楽の好みが、他者との関係を規定し、自分の社会的な位置を確認するコミュニケーションでもある、と説明した箇所のことです。彼は、『BECK』の愛読者でもあったので、そこにうまく引っかかってくれたのでした。こういう反応をしてくれると、じつはそこのところの議論のバックグラウンドにあるのが、ピエール・ブルデューの趣味による差異化の話で……といった話もできるのです。

一緒にこの本の編集したメンバーでもある河田さんが最初の記事で、大学の授業でも「○○という思想家はxxについて△△といいました、って話をしただけでは、ああそうですか、で終わってしまう。」という話をしています。大学の授業で学生に教える身にあって感じるのは、まさにこのことです。抽象的な概念の説明だけでは、学生たちは物足りなさを覚えているだろうし、その概念の説明ですらも本当のところ理解してもらえたのかなあ、という不安も生じます。ですから、それらの概念が実際に自分たちの普段の生活の中でどのように実感できるか、また、ある概念を知ることで自分のそれまでのものの見方や考え方にちょっとした亀裂が生じるといった‘知の体験’というものを少しでも感じてほしい、というスタンスを大切にしながら、本書を利用して講義を進めているのが現状といったところです。

2007年6月30日土曜日

『知のリテラシー 文化』が産経新聞で紹介されました

『知のリテラシー 文化』を6月25日付の産経新聞で紹介していただきました。本書で扱ったマンガ、ファッション、映画……という10のテーマを、「サブカルチャーとしてではなく時代の中に根ざす文化として論じこれを読み解く“リテラシー”を身につけるための解説書」と評していただけたのは嬉しい限りです。記事全文はこちら

それからもう一つ、当ブログでの紹介が遅れてしまったのですが、本書第2章「ファッション」を担当した小野原さんの近況として、神戸新聞(5月21日)紙上でも本書を取り上げていただいています。こちらは小野原さんの談話入り、顔写真入りですのでぜひご覧下さい!

2007年6月6日水曜日

『知のリテラシー 文化』が毎日新聞で紹介されました

今日6月6日付の毎日新聞で、『知のリテラシー 文化』を紹介していただきました。「現代文化の核心を読み解く」とまで評していただいて、光栄です。この紹介を見て『知のリテラシー』を読んでくださる方々の期待に本書が応えられますように(笑)。応えられない+αの部分はこのブログでもどんどん書いていこうと思います。


今後ともどうぞよろしくお願いします。

2007年5月29日火曜日

第6章「写真」の松本です

みなさん、はじめまして。『知のリテラシー 文化』の第6章「写真」を執筆しました松本健太郎です。前回の記事では編者の河田さんが本書の成り立ちについてお話しされましたので、今回の記事では僕が担当した章に話題を限定して、その執筆にあたっての“ねらい”などを手短に説明したいと思っています。

第6章のテーマは「写真」。しかしおそらく、ここでの写真の論じ方は、標準的な写真論のそれとはだいぶ異なるはずです。僕がこの章で目指したのは、例えば有名な写真家のある作品を紹介したり、あるいは写真史を概説したりすることではありません。むしろ僕が目指したのは、19世紀の前半にまったく新しい視覚システムとして登場した写真というメディアが人類の世界認識の方法をどう変化させていったのか、ということを読者のみなさんに意識してもらうことでした。

第6章の副題は「世界を透かしみる機械の眼」となっています。ここでいう「機械の眼」とはカメラのことですが、じっさいに僕らはそれぞれ自前のふたつの目玉で直接的にモノ(=対象世界)をみるだけでなく、カメラによって切り取られた光景を間接的にみることによって世界のイメージを組み立てていきます。しかもその際に重要なのは、僕らに外部世界を透かしみせてくれる写真という表現形式が「透明性」をそなえている、ということです。たとえば僕らは仮にアメリカに行ったことがなくとも、そのニューヨークという大都市で同時多発テロが起きたことを「見て」知っています。だとすると、そのような視覚体験は現代的な映像メディア──写真やテレビなど──の情報媒介に由来する、ということになるわけです(もちろん本章では写真にフォーカスして議論が進んでいきますが、他方ではそれを起点として、多種多様なコミュニケーション手段を編み出してきた人類のメディア史的な歩みの全体像にも目を向けてもらえるような内容になっています)。しかも僕らが世界貿易センターのツインタワーに2機のジェット機が突っ込んだことを「事実」として疑わないのは、それを報じる現代的な映像メディア、たとえば新聞写真やテレビ映像などのいわば「透明な窓」が現実世界をあるがままに透かしみせてくれると通常は信じられているからです(これと比較すると、たとえば絵画に描かれた風景は、それを描く人のスタイルが反映されるため、写実的であるようにみえても「あるがまま」とはいきません。ちなみに「透明な窓」とは、もともとは遠近法という視覚システムを表現するために使用されていた隠喩でした)。

かつてフランスの記号学者ロラン・バルトは「透明性」ということに関連して、「写真はそれを包んでいる透明な軽い外皮にすぎない」と語りました。そして、この写真の特殊性に注目していったのは彼だけではないのです。話はちょっと変わりますが、僕は先日、山形県米沢市で開催された日本記号学会に参加してきました。大会テーマは「Unveiling Photograph──立ち現われる写真」だったのですが、奇しくもそのなかで二件、写真の透明性に関する学会発表がありました。発表者はお二方とも(一人は本書の編者の一人、河田さんでした)ケンドール・ウォルトンという哲学者の写真論を研究の対象とされていたのですが、僕としてもその内容は「モノを見ること/写真をとおしてモノを見ること」の差異を考えていくうえで非常に興味ぶかかった。写真の透明性というテーマ、これは今ちょっとホットかもしれません。

しかし僕の第6章では、これとはまったく逆の考え方として、写真の不透明性についても検討がなされています。どういうことかというと、写真の透明な表象が何者かの意図のもとで加工され、そこにうつしだされた現実が大きく歪められる可能性がある。じっさいに写真がプロパガンダの手段として利用されてきた歴史的な経緯を念頭におくならば、それが擬似的な世界を演出したり偽装したりする、ある意味で「不透明なメディア」にもなりうることも否定できない。そんなことで第6章では「透明性/不透明性」の双方に対する問いかけを軸として、また、それだけではなく「言語と映像との相違」やら「人間と機械との融合」やら、さまざまなトピックを議論のマナイタのうえに載せながら、写真というメディアに対して複数の視点からアプローチしているわけです(そのあたりは、詳しくは本書のほうをお読みいただければと思います)。

本章を執筆するにあたっての“ねらい”として、僕は読者のみなさんに「学問すること」の楽しさを伝えていきたいと願っていました。たとえば写真は僕らの日常世界のイメージを形成する不可欠な素材ですが、人によってはその存在があたりまえすぎて、その影響に対して無自覚になりがちかもしれません。しかし、いったん理論のフィルターを通してみると、いままで「あたりまえじゃん」とおもっていたことが、まったく別の表情をもって僕達の意識に立ちあらわれてくる。もちろん本書では第6章だけではなく、全体をとおして、さまざまな学問的バックグラウンドをもった執筆者たちが、それこそいろいろな「思考のカタチ」を各自の担当章で紹介してくれています。もちろん僕の第6章もそうです(この章では、いわば学問的思考へのイントロダクションとして、記号論やメディア論の入門的な内容をもり込んでいます。これらの分野の視点からみると、写真とは記号であったり、またメディアであったりするわけです)。本書は「ファッション」「建築」「スポーツ」など、さまざまな文化的領域に関する具体的な実例を含み、一般書として幅広い層の読者に楽しんでいただける内容となっております。そして新しい概念や理論の学習をつうじて、いままで当たり前だと思っていたことが違ってみえてくる、また、そうすることで世界を読み解くための新しくも異化的な視点を獲得することができる、本書はそんな「知のリテラシー」をはぐくむための脳トレの場となることでしょう。

2007年5月22日火曜日

『知のリテラシー 文化』発刊!

大学教養課程の文化論などの講座のテキストとしても使え、なおかつ文化を論じた一般書としても読めるように──そんなちょっと贅沢な目標を掲げて、私たち10人の執筆者が一年間取りくんできた『知のリテラシー 文化』が先月ようやく発刊の運びとなりました。

せっかく本が出たのだからブログでも立ちあげようか、という話になって作ってみたのがこのブログです。もちろん、『知のリテラシー』という本の存在をできるだけたくさんの人に知ってほしい、という目的(つまりは宣伝)もあるのですが、それよりもむしろ、ページ数などいろいろな制約から書籍本体には盛りこめなかった内容を紹介したり、各章への他の執筆者からのツッコミ、本の内容とかかわる現在進行形の話題を紹介していけたらと思っています。また、執筆者の何人かは実際に大学の講義でこの本をテキストとして使いますので、そこでの使用レポートみたいな話題も記事として紹介していけたらと思っています。

今日は初投稿ということで、編者を代表して私、河田が、簡単に『知のリテラシー 文化』の内容を紹介させてもらうことにします。

『知のリテラシー 文化』の趣向を一言でいえば、マンガ、ファッション、映画、音楽、建築、写真、絵画、美術工芸品、食文化、スポーツという10のテーマを若手研究者が論じる、というものです。各章とも、そもそもマンガならマンガ、ファッションならファッションの何が不思議なの?、という点から説き起こし、マンガの不思議、ファッションの不思議……を平易な議論で解き明かしていきます。この本の「あとがき」の中でも書いたのですが、この「不思議」っていう点が、この本を書く上での一つの大きな軸となっています。まあ私たちは、いちおう社会的には職業=研究者ということになっているんですが、研究のテーマはみんなバラバラ。自分一人で研究をする分には、自分の興味のあることをしてるわけですから、別にそれでいいんですけど、自分の研究をもし人に理解してもらいたいと思ったら、まず自分の研究テーマがそもそもなぜ研究に値するのか、そこからちゃんと話をしないと伝わらないんですよね。大学の授業なんかでもそれはまったく同じで、○○という思想家は××について△△といいました、って話をしただけでは、ああそうですか、で終わってしまう。そこで『知のリテラシー』では、各章のテーマのどこが「不思議」なのか、まずそこから話を始めることにしたというわけです。どこが不思議なのか、という議論から、読者のみなさんと問題意識、知的好奇心を共有できたら、さらには「○○研究者」と呼ばれる人間が、なぜ○○に興味をもっているのか、○○の何を問題にしたいのか、ということまで想像してもらえたら、と執筆者一同思っています。

とまあ、こんなことを考えて企画自体がスタートしたのが去年の春。それから足かけ一年(というのはじつは業界的にはけっこう早いほうなのですが)、数え切れないぐらいの編集会議、原稿の検討会を重ね、ようやく形になったのが本書『知のリテラシー 文化』というわけです。各章の背景、それぞれの執筆者がどんなことを考えながらそれぞれのテーマを論じたかなどについては、おいおいこのブログでも紹介していこうと思っています。そんなわけで当ブログ『Literacy2007+1』も、『知のリテラシー』ともどもご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。コメント欄、トラックバック等は現在のところ閉じてありますが、コメント、質問等ありましたら、ぜひともメイルにてお知らせ下さい。



 『知のリテラシー 文化』
   葉口 英子+河田 学+ウスビ・サコ 編
   ナカニシヤ出版 刊
   定価 2500円(税込 2625円) A5判 240頁
   ISBN: 978-4-7795-0082-4